人物专访
七十九载中国情
本刊记者单喜军
生命不息,对理想的追求不止
----出自柳濑恒范著《无悔人生》
人物小传:柳濑恒范,男,祖籍日本大分县,1927年生于中国辽宁省抚顺市大官屯村,1947年5月归国,取得医学博士学位后自建医院,现为医疗法人碧会会长,社会福祉法人寿泉会理事长,三重县日中友好协会副会长。
10月的日本,正是红叶尽染之季。刚刚从北京回来的柳濑恒范先生在他的医院里接受了我们《中日交流》杂志社的采访。他作为日本三重县日中友好协会的副会长兼津市支部会长,刚刚出席完在北京召开的中国政府招待会,与国务委员唐家璇等会见,共商中日关系之大计,同谱中日友好之新曲。
走进柳濑先生的办公室,我仿佛走进了一个中国的世界:古朴的檀木连帮椅,绚丽的牡丹图,形形色色的中国小工艺品,还有墙上挂着的中国白求恩医科大学赠送的书有“情深意切”的锦旗---整个屋子都流动着一股浓浓的中国文化氛围,让人倍感亲切。79岁高龄的柳濑恒范先生精神矍铄、目光炯炯,看起来比实际年龄年青很多。听慈眉善目的柳濑先生津津有味地讲起他那40多次中国之行,我感觉像是在倾听一位见多识广的中国老人讲那亲身经历的故事。
“中国是我的第二故乡”
“中国是我的第二故乡,我热爱中国!”柳濑先生动情地说。“我的生命就是从中国开始的,在那里我度过了童年、少年和青年时代......”忆及往事,先生脸上流露出无限怀念的神色,在那个有着四个孩子的大家庭里,柳濑是倍受父母宠爱的老幺。良好的家庭氛围熏陶了他温和宽厚的性格,受过高等教育的父母的言传身教又让这个生长在异国天空下的少年从小便志向高远。品学兼优的他在中国读完小学、中学,又以优异的成绩考入了佳木斯医科大学。在那里,柳濑系统地学习了解剖学、生理学、生化学、药理学等医学理论,一步步迈入了医学的大门,可是,正当他踌躇满志地勾画着未来的蓝图时,日军战败,医大解散,日本人被遣返,柳濑和众多的同胞一道踏上了归国的航程......
“那个时候,我和中国孩子们一起成长,我以为抚顺就是我的家,根本不知道那是日本军国主义对中国的侵略......直到回国以后我才渐渐了解到当年日本在中国犯下的罪行。”柳濑语气沉重地说。是啊,那个时候,他还只是个孩子。尽管在今天看来,那段血雨腥风的岁月的确是漫漫历史篇章中一段不正常的段落,对中国来说是耻辱,对日本来说是罪恶,双方都不堪回首。但是,对于处在当时环境中的一个未成年人来说,不管他的国籍如何,身份如何,他都是一个被动的受害者。对于周围的世界,他们只是一种感性上的认识和本能的适应。对柳濑先生来说,那生命之初的十九个春秋,已经囊括了自己一生中所有关于孩童的天真,幼年的顽劣,少年的迷茫,青年的奋发......如今,这一切的记忆都来源于同一片土地---中国,先生将之称之为“缘”,而由此产生的中国情结及归国后数十次的中国之行,都被他归结为“乡愁”,“望乡”。
“中国太辽阔了,到处都有不同的风景,我喜欢中国,我差不多已经走遍了全中国!”柳濑先生一边自豪地说着一边搬出地图一一给我们指点着他曾经去过的地方:北京、上海、香港、黑龙江、吉林、山东、江苏、广东、云南、新疆、甘肃......顺着先生的指点,我仿佛看到一个锲而不舍,孜孜不倦的身影正穿梭在中国的大江南北,留连于华夏的山山水水,从青年走到中年,从中年走到老年......他一次次按下手中的快门,将一个个精彩瞬间定格为永恒的画面,我们翻看着柳濑先生的写真集,那一本本让人叹为观止的摄影图片竟全是中国的风土人情:东北的山、江南的水、大西北的旷野......每一个镜头都包含着柳濑先生深沉的怀念和眷恋,每一个画面都凝聚着柳濑先生无比的欣赏和热爱。真想不到,医术精湛的柳濑先生在摄影上也有着很深的造诣。是啊,作为一名生在中国,长在中国,曾经在中国那片热土地上留下过儿时记忆和青春脚印的日本人,柳濑先生对中国的感情或许是难以用语言来形容的。第二故乡----中国已经成为柳濑先生难以割舍的牵挂。
“中华民族是一个伟大的民族”
“我喜欢中国文化,中国文化博大精深,引人入胜。”柳濑先生充满深情地说。说起中国的京剧、杂剧、二胡、中医中药等国粹来,柳濑先生娓娓而谈、如数家珍,我不禁感叹于先生对中国文化竟有如此深刻、透彻的理解。而作为一名医生,柳濑先生尤其崇尚中国的中医中药和针灸技术。“那太神奇了!简直不可思议!”先生不住地感慨着。柳濑先生不仅长期致力于向日本的医院推荐中医中药,还专门从中国请了针灸师在他的医院里工作。对中国文化的宣传弘扬先生总是不遗余力,他多次举办个人中国画片展览,将中国的风土人情介绍给日本的民众。最近中国河南省文化使节代表团来日公演,柳濑先生专门请了专场演出,还同中国演员一同登台齐唱《北国之春》等歌曲。让更多的人了解中国,理解中国,跟中国友好这是先生一直倾注努力的心愿。
“中华民族是个伟大的民族,中国人胸怀宽广,我最敬佩的人是周恩来总理,他的宽容大度令人叹服,我永远忘不了他说过的话----日本的普通民众是没有错的,他们也是战争的受害者。这是多么宽广的胸怀,多么慈善的心肠!”提起周总理,柳濑先生满面景仰之色。“当时日本是战败国,菲律宾等东南亚受害国都索要战争赔款,只有中国放弃了赔款要求,如果当初中国也要赔款的话,日本根本就不会有今天如此的发达和繁荣;日本战败后众多的遗孤被遗弃在了中国,又是中国的养父母们视如己出般的将他们养大成人,这是多么博大的胸襟!”柳濑先生激动地述说着,感动之情溢于言表。
“我要尽自己的力量”
在日本三重,柳濑先生和他的病院及老人院几乎是家喻户晓。在日本人眼里,他是一位医术高明的医生,事业有成的社会活动家。但是,在所有居住在三重的中国人心目中,他俨然一位平易和蔼的父亲。多年来,柳濑先生默默无闻的为中国人付出着、奉献着。没有人知道他为中国人耗费过多少资金,倾注过多少心血,对他来说,付出是不需要回报的,他只是怀着一腔对中国的深情,对中国人的厚谊,默默地尽着自己的努力。
自从1976年担任三重县日中友好协会副会长以来,柳濑先生就开始了资助中国留学生的行动。替中国人做担保、找房子、联系工作……甚至管吃管住,这对很多日本人来说都是不可思议的事情,柳濑先生却是一做就是三十多年!每人每月5万日元的助学金,他一下子就资助了二十多名中国留学生。“有困难,找柳濑”在三重中国留学生中已经是众所周知。其实,物质上的帮助是能算得出来的,精神上的支持却是难以估量,对众多的中国学子来说,更让人感动的是柳濑先生在精神上对他们的鼓舞和鞭策。“在最困难的时候,一双手的力量的确是太大了,它能让你感受到全世界的温暖”,很多留学生都这么说,在数千名背井离乡的中国留学生心目中,柳濑先生就是那位总是向他们伸着热情之手的人。那些曾经接受过先生帮助的留学生学成归国后都奋斗在不同的岗位上,他们知道,爱国敬业就是对柳濑先生最好的报答。
其实柳濑先生对华人的帮助又何止是留学生,在日本,医学博士柳濑和他的柳濑病院的高超医术是远近闻名的,而他对于中国人的“优惠待遇”更是在当地华人圈中广为传道,当地人住院生孩子需要花费30多万日元,而华人在他那里却只需15万日元的基本料金,作为一位技艺精湛的妇产科医生,柳濑先生亲手接生的中国婴儿就有15名,这不仅在日本,就是在全世界的外国医生中,也是不多见的。如今,那些经由他的手来到这个世界的中国孩子都已经陆续长大,他们一定不会忘记生命之初那双温暖的手。而身上带着柳濑爷爷体温的他们,长大后也一定会对这个世界充满爱心,他们也必定会成为中日友好的使者。
除了资助留学生,帮助在日中国人,柳濑先生还致力于中日之间的交流,竭力促进中日友好。早在70年代中日刚刚恢复建交时,柳濑先生就热心张罗着日本和中国之间的友好交流与合作。在他的努力下,中国和日本之间展开了多项交流。特别是在医学领域的往来更是频繁。在柳濑先生的撮合下,日本的多家医疗机构都与中国的相应机构建立了交流合作关系,仅位于三重县的三重大学医学院就与中国的中国医科大学、北京儿童医院、天津医院、江苏大学医学院等多家单位建立了合作关系。很多中国的年青医生在柳濑先生的资助下来到日本培训进修,学习日本先进的医疗技术,他们回国后都成为中国当代医疗事业的中坚力量。在柳濑先生的建议下,日本的很多医疗机构也积极借鉴中国传统的中医中药理论,并推广应用到临床实践中。柳濑先生还担任着镇江医学院、杭州市第二人民医院、丽水市人民医院、白求恩医科大学、绍兴第四医院等多家中国医疗机构的名誉教授,多次去中国见学指导,还曾在中国医院亲自为中国病人做过手术。中日之间能友好往来、交流合作、相得益彰正是柳濑先生毕生追求的目标。
“我不是政府要员,政府之间的恩恩冤冤我不管,我只是去做出一个普通民众的努力,我要尽自己的力量。”柳濑先生谦虚地说。
“日本和中国要友好,友好才能双赢”
说起近期的中日关系,柳濑先生兴奋地说“当前日中关系已经开始走向好转,过去的五年里,小泉前首相一意孤行,不顾大局,他的思维是怪诞的,我非常讨厌他。现在安倍上台,第一个出访的国家就是中国,我期盼着今后日中关系能更加向好的方面发展。中国人民很伟大,中国现在正在以极快的速度发展着,中日邦交正常化30多年来,我已经先后去过中国40多次,每次去都会发现中国巨大的变化。中国的发展速度简直是令人震惊,现在,中国的外汇储备额已经超过日本成为世界之最。北京、上海、大连等大城市与日本东京已经看不出什么区别。中国的发展将给日本带来更多的机遇,中日关系的和谐友好对双方都有益。”他还特意给我们举了个例子。“现在中国的建设日新月异,各种建筑材料的需要都很大。每年都要从日本进口大量的铁材,这给日本的制铁厂带来巨大的效益。中国发展了,日本的市场也大了,双方互惠互利,这不是双赢吗?”柳濑先生爽朗地笑着说。对于某些人叫嚣的所谓中国威胁论,柳濑先生不屑一顾。
在我们的采访即将结束的时候,柳濑先生欣喜地告诉我们他马上就又要起程去中国了,11月7日,以平山郁夫为团长的全日本日中友好协会会长友好访中团将赴北京进行友好访问,柳濑先生作为三重县的代表将踏上他的第42次中国之行。届时他们将去中南海与中国高层领导人会见,并参观奥运会场。柳濑先生对中国的发展充满了希望,对中日关系的前景充满信心。“中国和日本是近邻,这两个亚洲大国的格局决定着亚洲的格局,也极大地影响着整个世界形势。日本和中国再也不要战争了,日本和中国要友好,友好才能双赢!”柳濑先生坚定地说。他睿智的眸子里闪耀着慈祥的光,而从这位胸怀广博的长者身上,我更看到一种伟大的国际主义精神正熠熠生辉。
七十九年の中国心
訳 董金華 図 単喜軍
命あるかぎり理想を求めて
――柳瀬恒範著『わが人生に悔いはなし』より
人物略伝:柳瀬恒範、男、本籍日本国大分県、1927年中国遼寧省扶順市大官屯村生まれ、1945年5月に日本に帰国して、医学博士学位を取り、その後開業した。現在、医療法人碧会会長、社会福祉法人寿泉会理事長、三重県日中友好協会副会長。
10月の日本は紅葉に染まる季節である。北京から帰国したばかりの柳瀬恒範先生は先生の病院で、我々「中日交流」雑誌記者のインタビューを受けて下さった。柳瀬先生は、三重県日中友好協会の副会長及び津市支部会長として、北京で中国政府の招待会に参加し、中国の唐家セン国務委員などとの面会後、中日友好について会談した。
柳瀬先生の事務所に入ると、まるで中国の世界に帰ったように感じた。素朴な中国風の家具、鮮やかな牡丹図、中国の芸術品、中国白求恩医科大学の贈与した「情深意切」の掛け軸など、部屋に中国の雰囲気が溢れていた。79歳の柳瀬先生は非常にお元気で、実際の年齢より大分若く見えた。柳瀬先生から今までの40回を超えた中国の旅の話を聞くと、まるで、見聞広い中国のお爺さんから自分自身の経験の話を聞いているような感じがした。
「中国は私の第二の故郷」
「中国は私の第二の故郷です。私は中国が好きです。」柳瀬先生は感情溢れて言った。「私の命は中国から始まり、そして中国で幼年、少年及び青年時代を送った。」昔のことを思い出すと、柳瀬先生の顔に懐かしい表情が溢れた。柳瀬先生の家は子供四人の大家族だった。先生は末っ子で他の兄弟より倍以上親から愛をもらった。良い家庭の雰囲気が彼の寛厚や温和の性格を形成した。高いレベルの教育を受けたご両親の影響で、異国で成長した少年は幼年時代から高い志を持っていた。心も成績も優秀な彼は中国で小学校、中学校を終え、優秀な成績で佳木斯医科大学に合格した。大学では、彼は系統的に解剖学、生理学、生化学、薬理学などの医学理論をしっかりと勉強して、一歩一歩と医学の門に入った。しかし、運命はいつも人間の意志に沿ってはいなかった。彼は、希望に満ちて自分の将来の青写真を描いていたちょうどその時、日本は戦敗し、医学大学は解散し、日本人は全部日本に送還されることになった。柳瀬先生も他の日本人と一緒に日本へ帰る船に乗った。
「その時、私は中国の子供と一緒に成長して、抚順が私の故郷だと思っていた。日本軍国主義が中国を侵略したことは知らなかった。日本に引き揚げた後、初めて、当時日本軍が中国で起こした罪を知った。」柳瀬先生は口重く言った。その当時、彼はただの一人の無邪気な少年だった。今から振り返ってみると、その悲惨の歳月は確かに長い歴史上の異常な一段落である。中国にとっては恥辱で日本にとっては罪悪、両方ともあの時を思い出すに堪えないと思う。しかし、当時の環境にいた少年にとっては、国籍がどこかや身分は何かに関係なく、間違いなく受動的な被害者だった。周りの世界に対して、感性的に認識して、本能的に適応するしかできなかった。柳瀬先生にとって、人生のはじめの19年の歳月は彼の生涯で、幼年の天真、少年の迷い、青年の奮発をすべて含んでいる。今、それに関するすべての思い出は同じ土地―中国から来る。柳瀬先生はそれを「縁」と言う。それにより、生まれた中国感情や帰国後数十回の中国の旅を彼が「郷愁」や「望郷」に纏める。
「中国は本当に広いですね。そして、地方によって、景色も違います。私はほぼ中国の全土を回ってきました。」柳瀬先生は地図を指しながら、自慢気に、行ったところを説明してくれた。北京、上海、香港、黒竜江、吉林、山東、江蘇、広東、雲南、新疆、甘粛… 先生の指すところで、青年から中年へ、中年から年寄りまで、根気強く疲れも知らずに、中国の山や水の中を回っていた人を私は見たような気がした。彼は手の中のカメラのシャッターを何回も押して、綺麗な風景を永久な画面にした。私は柳瀬先生の撮った写真のアルバムを捲ってみた。東北地方の山、江南の水、西地方の広い高原…、いずれも先生の中国への感情を含んでいる。医術の高い柳瀬先生が撮影もお上手とは思わなかった。中国で生まれ、中国で育ち、中国の土地に自分の子供の記憶を残し、先生の足跡を印した柳瀬先生の中国への感情は多分言葉でなかなか表せないのではないでしょうか。第二の故郷――中国はもはや柳瀬先生の離れられない感情になっていた。
「中華民族は偉大な民族」
「私は中国文化が好きです。中国文化は博大、深く、人々を魅了します。」柳瀬先生は感情が溢れて、言った。中国の京劇、雑技、二胡、漢方医や漢方薬などの中国の国粋を言い出すと、柳瀬先生の話は止まらない。先生の中国の文化への認識の深さや理解に私は感心で堪らない。医者として、先生は特に中国の漢方薬や針に興味がある。「あれはすばらしい、不思議です。」先生は日本の病院に漢方医や漢方薬を推薦するだけではなく、中国から専門の針医者を招いて、先生の病院で働いてもらった。中国文化を伝えることにも先生は力を残さずに行なってくださった。先生は個人で何回も中国写真展を開催し、中国の風俗慣習を日本の人々に紹介した。最近、中国河南省文化使節代表団が来日公演した。もっと日本の人々に中国の文化を理解してもらうために、柳瀬先生は代表団を自分の老人ホームに招いた。そして、舞台に登って中国の歌手たちと一緒に『北国の春』などを歌った。中日の友好関係を促進することは柳瀬先生の長年の願いである。
「中国は偉大な民族です。中国人の心は広いです。私が一番尊敬する人は周恩来元総理です。彼が言った言葉を私は一生忘れません。戦後、彼が言った日本の普通の国民の過ちではない。彼らも戦争の被害者です。それはどんなに寛大な心でしょうか。」周恩来元総理の話しをすると、先生の顔に尊敬の表情が溢れた。「当時、日本は戦敗国で、東南アジアの国は高額の戦争賠償を求めた。しかし、中国は賠償をあきらめた。もし、当時中国も戦争賠償を求めたら、日本の今のような発展や繁栄はありえない。そして、戦後沢山の日本人の子供は中国に残された。中国の養父母は自分の子供のように育ててくれた。これもまたどのような寛大な心でしょう。」
「自分の力を尽くしたい」
日本の三重県では柳瀬先生や彼の病院、老人ホームを知らない人はほぼいない。日本人の目には、先生は医術の優れた医者、そして事業で成功している社会活動家である。しかし、三重県に住んでいる中国人の心には、先生は優しいお父さんのように存在している。長年、柳瀬先生は黙々と中国人の世話をしてきた。先生は中国人のためにいくらの資財を使ったか、どれくらいの心を傾けたかを誰も知らない。先生にとっては、そのすべての援助は報いが要らない。ただ中国への深い感情を込めて、努力する。
1976年三重県日中友好協会副会長になって以来、柳瀬先生は中国人留学生の援助活動を始めた。中国人留学生のために保証人になったり、アパートを探したり、アルバイトを斡旋したりしていました。困窮している留学生にアパートを提供し、食事も出した。この普通の日本人にとっては不思議なことを彼は30年間も続けてきた。一人一月5万円の援助金で、先生は全部で20名もの中国人留学生を援助した。「困ったら、柳瀬さんに相談する」ということは三重県中国人留学生の中ではよく知られている。物質的な援助は計算できるが、計算できない心のサポートも多かった。「困ったとき、だれかが出してくれた手は本当に心強いです。」沢山の留学生が言った。自分の故郷を離れ、日本で勉強している留学生の心の中で、柳瀬先生がその手を出してくれた人である。先生に援助を受けた数多くの人は日本で学位を取って、中国に帰って、自分の仕事でがんばっている。彼らは愛国や仕事に頑張ることは先生への最大の報いだと思っている。
柳瀬先生が助けたのは留学生だけではない。日本では医学博士柳瀬及び彼の柳瀬病院、優れた医療技術を知っている人は多い。彼の中国人に対する優遇も三重県津市に住んでいる中国人はみんな知っている。普通、日本の病院ではお産は30万円かかる。しかし、中国人は彼の病院では、半額の15万円であった。産婦人科の医者として、彼の手でこの世に生まれた中国人の赤ちゃんは15名にも上る。これは日本だけではなく、全世界の外国人医師の中では、珍しいことである。柳瀬先生の手でこの世に生まれた中国人の子供たちはもう大きくなって、将来も彼らは自分の命の初めの暖かい手を忘れないだろう。そして、彼らもきっと中日友好の使者になるだろう。
留学生を援助して、在日中国人を助けるほかに、柳瀬先生は中日の間の交流を行い、友好を促進する。70年代、中日外交関係が正常化したばかりの時から、柳瀬先生は両国の間の友好交流や協力をはじめた。
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删除 引用 cily (2008-10-27 19:43:05, 评分: 5 )
删除 cily (2008-10-27 19:42:38, 评分: 5 )
删除 Guest (2008-7-22 12:50:05, 评分: 5 )