[双语]住吉先生
住吉先生
文/劉 徳潤 訳/劉 淙淙
住吉里子先生(1926-1989)は私の恩師である。 先生は日本語の発音から三年間教えてくださった。前世の因縁だろうか。29歳の時、私は、河南省新郷市栄康病院の住吉先生と知り合った。栄康病院とは、軍隊から復員した身体障害者の兵士の専門病院である。この偶然の出会いのおかげで、私の人生は変わった。 住吉先生は山梨県甲府市生まれで、貧しい農家の娘であった。国民学校の高等科卒業して、地元の落下傘工場に就職した。
住吉里子先生(1926-1989)是我的恩师。先生从日语的发音开始,教我学习了三年日语。也许是前世因缘,我29岁那年,认识了河南省新乡市荣康医院的住吉先生。荣康医院是专门为军队复原的残疾军人服务的医院。由于这个偶然的相识,彻底改变了我的人生。住吉先生生于山梨县甲府市,是一位贫苦农家的女儿。在家乡的国民学校高等科毕业后,就职于当地的一家降落伞工厂。
住吉先生
1942年、満蒙開拓民として、故郷を離れ、朝鮮半島経由して中国黒竜江省の報国農場に来させられた。
1945年8月15日、日本は敗戦を迎えた。満州国は消滅し、関東軍はまさに孤軍となった。ソ連軍に降伏した関東軍兵士には日本への帰国は許されず、シベリア等の極寒の地に抑留され、過酷な労働に従事することになる。しかし、それ以上に悲劇的なのは日本の民間人で、特にソ連・満州国境近くに住んでいた満蒙開拓団の人達は関東軍に置き去り同然にされたのである。 敗戦後の東北地方の大混乱の中で、開拓団の人達は避難する途中で多くの人が前途を悲観して自決し、あるいはソ連兵、匪賊に虐殺された。 住吉先生は、九死に一生を得て、長春で共産党系の林彪が指揮した第四野戦軍に入隊した。入隊の動機は、生きていくためだけでなく、第四野戦軍には、100名ほどの日本人医者、看護婦から編成された医療班があるのである。 解放戦争(共産党軍と国民党軍の内戦)の時代、住吉先生は軍隊と一緒に南下して湖南省の長沙に駐屯していた。先生はさっそく日本へ帰りたがっていたが、帰郷の夢はなかなか叶えなかった。日本の家族とも音信不通だった。すでに30代になった先生は、河南省出身の中国人兵士(中隊長)と結婚した。夫婦共に軍隊から復員して新郷の栄康病院に就職した。 その後、ご主人に死なれて住吉先生は二人の子供を女の細腕一本で育てている。給料は47元ほど、当時の為替レートで日本円6千円に過ぎない。さいわい、中国の物価は安い。親子3人でかろうじて貧しい生活を送っていた。
1942年,先生作为满蒙开拓民,身不由己地离开故乡,经朝鲜半岛,来到中国黑龙江省报国农场。
1945年8月15日,日本战败,满洲国烟消云散,关东军孤立无援。苏军不允许投降的关东军士兵回日本,将他们扣留在西伯利亚等极其严寒的地方充当苦力,从事劳动强度极大的苦工。但是,日本的民间人士比起军人更加悲惨。特别是居住在苏满边境的满蒙开拓团的平民,被关东军抛弃。在战败后的混乱不堪的东北地区,在逃难时,开拓团员中,有人悲观自杀,有人因疾病与严寒倒毙于途。即便是想埋葬死去的同伴,但是在冻土地带挖掘坟墓是完全不可能的。只能眼睁睁地看着同伴的遗体被野狗、野狼吃掉。还有人被苏联兵、土匪杀害……住吉先生九死一生,在长春参加了共产党林彪指挥的第四野战军。参军的动机只是为了活下去。第四野战军中有一支由100人左右的日本医生护士组成的医疗队。解放战争时期(国共内战),住吉先生随军队南下,驻扎在湖南省长沙。先生很想立即回到日本,但是回故乡之梦却久久难以实现。与日本的亲人们也是音信杳然。已经30多岁的住吉先生与一位河南籍的中国军人(连长)结了婚。不久,夫妻两人一道复原到新乡荣康医院。后来,丈夫病故,住吉先生靠自己一个妇道人家的微弱之力苦苦支撑,抚养两个孩子。每月工资只有47元,按当时的汇率只相当于六千日元。好在中国物价低廉,好歹够母子三人勉强度日。
1974年、山梨県庁の配慮と先生の肉親の努力で、住吉先生は、32年ぶりに娘の住吉琴を連れて一時帰国した。「私は浦島太郎です」と帰郷の実感を語った。 先生は兄弟から、両親のことを聞いた。 終戦直後、お母さんは毎日甲府駅へ里子を迎えに行っていた。お母さんは涙ぐんで朝から夕暮れまで、大勢の引揚者と肉親の無数の再会の場面を見ていた。しかし、里子の姿はずっとなかった。プラットホームと駅前は静まり返った。お母さんはくたびれて駅を離れ、「里子は必ず無事に帰ってくる」と呟きながら帰宅していった。 よくあさ、お母さんはまた駅に出る。中国から近所の人々は生還者でも遺骨でも一人一人帰ってきたが、里子は帰ってこなかった。 数年後、ご両親は里子のことを心配しながら他界した。 帰国した時、住吉先生は、娘を連れて先祖代々のお墓参りをして、自分の中国での人生と家族のことを報告した。
1974年,由于山梨县政府与家属们的努力,住吉先生时隔32年,携带女儿住吉琴短期回国。“我真像是浦岛太郎。”住吉先生感慨地谈到自己还乡的感受。先生从兄弟那里,听到了父母的消息。战争结束后不久,母亲每天到甲府车站去迎接里子。母亲含着眼泪从早盼到晚,目睹了许多归国者与骨肉亲人重逢的场面。可是就是不见里子的踪影。夜里,站台上变得寂静了,母亲才拖着疲惫的身躯离开车站,“里子一定会平安回来的”,喃喃自语地回到家里。第二天一早,母亲又到车站去了。周围的邻居,不管是活着也好,骨灰也好,都一个一个回来了,可是日复一日,里子还是没有回来。几年后,父母怀着对里子的牵挂撒手人寰。如今,住吉先生终于带着女儿来给祖先扫墓了。她将在中国的生活与家里人的情况报告了父母。
息子の住吉武はまだ中国に残っている。先生はふたたび新郷の家に戻った。 文化大革命の最中、私は住吉先生に日本語を習い始めた。 絶対中途半端ではなく、先生のご希望にそむかないと私は決心をした。 私は、週に三回、鈴懸の径を先生のお宅へ通っていた。 当時の文化大革命の政治スローガンばかりの日本語テキストを先生の前で暗誦し、発音の訂正をいていただき、作文の添削もしていただく…… 先生はご家族からの手紙を出して、生の日本語の教科書として教えてくださる。 私は、先生のご家族の手紙をノートに丁寧に写して、生の日本語のテキストとして勉強していた。 住吉先生は和歌も教えてくださった。
八重七重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに、なきぞ悲しき
洗濯機、テレビなどが無い不便の時代、先生の家事を手伝いながら会話の練習をしていた。 その文革の時代は、金銭は資本主義のシンボルとしてひどく批判されていた。 月謝という概念はなかった。 今、先生のご恩はどうして返すべきであろうか。
大和撫子の住吉先生、母親のように親切にかわいがってくださった住吉先生。
由于儿子住吉武还留在中国。先生又重新回到了新乡的家中。文化大革命初期,住吉先生作为日本人,毫无例外地受到了迫害。不久,我开始向住吉先生学习日语。先生说:“我是日本人,你害怕么?”我回答说:“不怕。”我下决心学会日语,绝不半途而废,绝不辜负先生的希望。我每周三次踏着法国梧桐的小径前往先生家里。我在先生面前背诵当时文化大革命时期充满政治口号的教材,先生给我纠正发音,批改作文……先生说:“这不是地道的日语”,她拿出日本的亲人们写给她的来信,作为日本语的活教材来教我。我高兴地将老师亲人们的书信恭恭敬敬地抄写在本子上,学习地地道道的日语。住吉先生还教给我一首和歌,给我讲述太田道灌的故事:
七重八重棣棠开,花不结果悲人怀。
---兼明亲王《后拾遗和歌集》
一天,太田道灌出去打猎,不巧遇雨,到农家借蓑衣时,农家的姑娘手持八重棣棠花吟咏了这首和歌。太田道灌不懂此歌的含义,十分羞愧,转身上马,消失在雨中。据说,后来他勤奋学习歌道。
在没有洗衣机、电视机、煤气等的十分不方便的时代里,我曾一面帮先生干家务活,一面练习会话。在文革时代,金钱被当成资本主义的象征来批判。人们完全没有“每月给老师学费”的概念。
住吉先生是温柔而刚强的日本女性,像母亲一样亲切地关爱着我。如今先生已去世,我该怎样来报答先生的大恩呢?
1985年3月12日、住吉先生、武君との再会箱根にて
1978年、河南師範大学は日本語科を新設することになった。住吉先生のご推薦で、私は河南師範大学の教師になった。 1979年の早春、住吉先生は二人の子供を連れて永住帰国した。 その後、先生は、中国の古典詩歌が好きな私に、『万葉集』『古今集』『新古今集』『百人一首』などの文庫本を送ってくださった。 1985年、私は大平学校の学生の一員として初めて日本を訪問した。 住吉先生と息子の武は、わざわざ車を飛ばして甲府から箱根へ私に会いに来た。
1978年,河南师范大学准备开设日语专业。住吉先生推荐我到河南师范大学当上了日语教师。1979年早春,住吉先生带着两个孩子回日本定居。我自幼喜爱中国古典诗歌,于是先生给我寄来了《万叶集》《古今集》《新古今集》《小仓百人一首》等文库本书籍。1985年,我作为大平学校的一名学员首次访问了日本。住吉先生和儿子住吉武特意驱车从甲府赶到箱根与我见面。
1989年の春、住吉先生は波乱万丈の数奇な人生を終えて故郷の富士山の麓の甲府市で病気で永眠した。 先生のご冥福を祈ってやまない。
1998年春天,住吉先生走完了波澜壮阔的坎坷人生之路,因病逝世,长眠于故乡富士山麓下的甲府市。我永远为住吉先生祈祷冥福。
以上は、私の1990年の作文の一つである。不自然な表現がいっぱいあるが、出来るだけそのまま保存していきたいと思う。 2007年、拙作の『小倉百人一首』は26年の努力で、北京の外国語教育と研究出版社によって出版された。日本文学、日本文化をできるだけ多くの中国の人々に紹介することは私の使命だと思う。 これこそ住吉先生への恩返しである。
2008年4月、私ははじめて山梨県を訪ねた。 東京からバスで山梨県へ行く途中、甲州の山々を見ながら、17歳の住吉先生は柳行李を背負って同郷の人々と、東京へ向かっている隊列を、私は錯覚で見たような気がした。
以上是我1990年的一篇日语作文。日文的遣词用句有很多不自然的地方。但是我想尽量保持它的原貌。2007年,拙著《小仓百人一首》经过26年的努力,终于在北京的外语教学与研究出版社出版。将日本文学,日本文化介绍给尽量多的中国人,这就是我的使命。这也正是对住吉先生最好的报恩。
2008年4月,我第一次踏上了山梨县的土地。在从东京乘坐大巴前往山梨县的途中,仰望着甲州的群山,我不由得产生了错觉,仿佛看见17岁的住吉先生背着柳条行李箱,与乡亲们一道背井离乡,前往东京的队列。







